前回の続きで、次は改良樋箱(改良
トイレ)で、東京の高橋松之助さんの
発明です。
和式トイレ(その当時洋式トイレは
なかったと思いますが)の後ろのほうが
傾斜しており、後ろのほうから「ポッチャン」
と、落ちるのが、いーんです。
明治18年10月から21年4月までで、
販売数量71個 売上78円余、1個
1円10銭程度だったんですね。
需要者は増加傾向で、明治21年
4月現在までの収支としては、23円余の
赤字(漢字がにじんで読めないのですが
「償ハサル」のように見えます)のよう
です。
次は、「イグサ心蝋燭」という、神奈川の
山本壮次郎さんの発明です。
明治19年2月~21年4月までの
販売数量58,500本、売上約400円、
販路は最初神奈川で、祝祭その他の
開所式等に使用されたそうです。
需要者は増加傾向で、今では全国
規模となっており、この発明は、以前に
発明した糸心蝋燭に代用されるもの
なので、計算上は、これにより売上が
上がったとはいえないとのことでした。
次は、「八眞登靴」というもので、千葉の
江澤達明さんから届けがでていますが、
明細書の特許権者は山口太左衛門さん
となっていますので、権利を譲渡
したんですね。
これは、今で言えば、ばねを備えた
サンダルで、草履や草鞋などの時代?
にしては画期的だったんでしょうか。
明治18年12月~21年4月までの
販売数量が15,000足余、売上は、
7,000円で、販路は関西地方を中心と
して拡大中だったんです。
損益は黒の約2,500円だそうで、
すごい儲かりましたね。
当初は発明者の山口太左衛門さんが
製造していたのですが、附帯する金物
帯等が不十分で、名声が芳しくなかった
のですが、このため江澤さんが権利を
譲り受けて試行錯誤を重ねた結果、
明治20年の3月4月頃から名誉を
挽回して、昨今は販路を拡大するに
至っていたんです。
次は、「写真絵及び石飯書着色法」と
いうもので、東京の小豆澤亮一さんの
発明です。
(「あずきざわ」と読むんでしょうか?)
発明は、写真や石版に油絵具を施して、
油絵のように見せる方法なんですって。
その当時写真は貴重でしたので、
写真に絵具を塗るなんて、「もったい
なくねーか?」と思うのは私だけ?
(裏側から着色するのが「味噌」だ
そうですが)
明治18年10月から、21年4月
までで、販売数量1,747枚 売上
1,488円30銭で、1枚85銭程度
ですね。
販路は外国人が多く、日本人は
少ないそうで、比率としては6対4だ
そうですよ。
1回に数百枚の注文というのはない
そうですが、常に需要があるそうで、
需要は日増しに伸びているんです。
専売特許ということにより売上が伸びた
のかどうかという詳細ははっきりしない
のですが、相応の利益は出ているんです。
この発明は、発明者の一家により
製造されて、直接販売されているん
ですが、明治19年9月に亀井至一と
いう人が、着色法を偽造販売していた
ので、「侵害だー」と言って、小豆澤
さんが告訴をしたんです。
この結果、この年の12月9日に東京
軽罪裁判所(今とはちょっと裁判所の
仕組みが違っていました)の予審にて
「これは自分の発明だー」と言ったの
ですが、「元来この発明は、すでに
亡くなっている横山松三郎さんの発明
なのに、小豆澤さんも亀井さんも横山
さんから譲り受けたんじゃないんだから、
訴えちゃあ、ダメだよね」ということに
なりました。
ということで、小豆澤さんは、「東京
軽罪裁判所は、相手やその証人の話
ばかり信用して、自分には1問もせずに、
特許無効だなどと言ったのはおかしい
よね」ということで、大審院に上告した
んです。
そうしたところ、大審院では明治21年
の3月31に前の裁判全部を破棄して、
差し戻したんです。
ということなのですが、ここまでしか
書いていないので、その後の結果を
調べるのも面倒なので、興味がある方は
自分で調べてみてください。