この前の商標制度黎明期の次は、意匠を
見てみましょう。
意匠法は、この前も書きましたが、明治
21年12月18日に意匠条例として公布され、
翌年2月1日より施行されています。
ということで、意匠のほうも、以下の
最初の画面から、入りましょう。
https://www.j-platpat.inpit.go.jp/web/all/top/BTmTopPage
こちらのほうは、商標と違って、番号範囲指定
というのがありませんので、仕方がありませんの
で、1から10とでも入れてみましょう。
(「1:10」などと指定しても、プラピさんに、
「何だ?それ。」などと言われてしまいますので、
下のように、入れましょう。)
そうすると、「出~た~な~。」ということで
以下のようになりますので、まずは、1番目を
クリックしてみましょう。
そうすると、上のような画面となり、「なんか、
最初の画面が切れてしまってんのか??」
などと思ってしまうのですが、よく読んでみると、
他の特許関係の審決文であることがわかり
ます。
明治22年当時の審判長は、高橋是清さんが
兼ねていたんですね。(初代長官の高橋是清
さんは、明治22年(1889年)10月31日まで
とうきょうとっきょきょかきょく??の長官
でした。
(明治22年は、長官ではなく、特許局長という
名前だったことは一度もなく、明治22年は、
農商務省特許局という名前でした。))
明治18年の専売特許条例では、「おら、
そんな査定いやだー。 もっと偉い人で、登録
できるかどうか、調べておくんなまし。」という
のはなかったのですが、明治21年勅令の
特許条例では、第12条で、「査定に不服だった
ら、特許局に不服理由を出してもいいぞ。
そしたら、特許局長が、審査官に、更に審査を
させんだぞ。」となり、第15条で、「再査定に
不服だったら、さらに審判請求していいんだぞ。」
と改正されました。
話を戻して、意匠は先ほどの文献のどこに
書かれているのかというと、一番下の赤枠で
囲った部分で、名称が、「織物縞の意匠」、残念
ながら字がにじんではっきりしませんが、請求
区域や、要部、類別番号・品名、などがあるのが
わかり、管轄は、樺太、氏名は須永由兵衛さん
だそうです。
ということで、2頁目をめくると、以下の
ような縞模様の意匠が出てきます。
北海道なんちゃらかんちゃらの図書の
なんちゃらかんちゃらと読めるはんこが
押してありますので、大正大震災で特許庁の
資料が焼けてしまい、北海道からコピーを
取り寄せたのでしょうか?
それでは、2番目を見てみましょう。
2番目はハンカチの意匠、3番目は下駄
草履の鼻緒の意匠で、2頁目をめくると、
2番目の意匠だけが出てきますので、3番目の
意匠は、意匠登録0000003をクリック致し
ましょう。
ということなのですが、さらに4番目以降を
クリックすると、面白いことがわかりますので、
例えば4番目をクリックしてみましょう。
意匠はさておき、その下に、いろいろ書か
れており、たとえば、特許権者が亡くなった
ので、権利を相続したり、特許の譲渡があっ
たり、売買があったり、さらに下のように、
共有があったりと、当時、権利者の変動が
結構多かったのがわかります。
それでは、意匠のほうも、工業所有権制度
百年史から、当時の最初の2年間の出願状況
などを見てみると、最初の年の明治22年の
出願が176件、登録が23件、2年目の明治
23年の出願が497件、登録が82件と、
この前の以下の商標出願に比べ、意匠は
そんなに多くはなかったのがわかります。
ということで、続く。